野沢温泉 常盤屋

嘉永年間創業

寛永年間創業 370年の歴史「常盤屋」

常盤屋の温泉旅館としての歴史は古く、創業は寛永年間(江戸時代。1624~1644年)だといわれています。 寛永16年、松平遠江守忠親が飯山城主となったときに、野沢温泉に奉行をおいて、浴場を改善して屋敷を作り、城主や家来が入浴するようになりました(常盤屋10代館主富井眞著『厚生と療養―野沢温泉案内』)。以後、霊泉として評判が高まり、1度衰退したものの、温泉町としてにぎわい発展していきました。江戸時代には、庶民の家は2階建てまでと決められていましたが、温泉町の発展を望んだ城主は3階建てを許し、藁葺き3層建ての温泉宿が作られました。 当時の建物の写真が、常盤屋館主のコレクションにあります。 常盤屋旅館は野沢温泉の老舗旅館として長年地元の発展を支え、野沢温泉の時代を築いてきました。

野沢温泉はいつごろからあった?

むかしからの言い伝えによると、天平年間、聖武天皇の時代(1270年ほど前)に、名僧、行基が小菅山に巡行したとき、ここに霊泉があることを知って、その霊効を里人に教えたと言われています。また別の説では、天暦年間(1050年ほど前)に、山伏が湧泉を見出し、世に伝えたとも言われています(『厚生と療養―― 野沢温泉案内』富井真)。 以後、この地は、源頼朝の所領、鎌倉幕府の支配、足利尊氏の所領、室町幕府の支配、上杉輝虎の領地、松代の城主の所領を経て。飯山藩の所領となりました。 寛永16年(1639年)、松平忠倶が城主になったとき、野沢温泉に奉行を派遣して、浴場を改善。仮屋敷を置いて城主が入浴を行い、積極的に運営を行ったことから、来浴も多くなり、温泉が発展していきました。 しかし松平氏が遠州に去るに及んで、温泉は徐々に衰えはじめ、その後、統治者の相次ぐ交替などで、浴場は荒廃していきました。 温泉が再び繁栄を取り戻したのは、明治時代、長野県の管轄になってからです。明治13年に道路の大改修を行って、交通の便をよくし、21年の浴舎の大改築には、当時の長野県知事の参列で開湯式が行われたという記録が残っています。続けて、旅館や浴場などの大改築が行われ、道路も県道となって、改修が行われるようになりました。 大正9年には飯山鉄道が開通し、野沢温泉駅からバスでわずか12分で行けるようになりました。15年には長野電鉄が木島駅まで延長し、ここからはバスで35分で到着できるようになりました。交通機関の発達によって、旅館の設備内容も充実していきました。 なお、野沢という地名ですが、これは「浅葉野の沢」が略されて「野沢」となったものだと言われています。万湯集などで枕詞として使われる「浅葉野」は、小菅山のあたり一帯をさしたといわれ、野沢温泉は浅葉野の沢といわれていました。また、この土地は、神戸の郷(ごうどのさと)または湯沢の荘といった時代があったようです(『私本温泉邑の神佛さま』富井盛雄)。

大正時代の千人風呂

千人風呂といっても千人が一度に入れる大浴槽という意味ではありません。光明皇后が風呂によって1000人に治療を施したことに因んで、千人風呂と名づけられたのですが、常盤屋の千人風呂が大きいのは事実。写真は、「広大にして信州一」と言われていた時代のものです。なぜか浴槽に舟が浮かべてあり、それが人気のようでした。ものの本には、千人風呂に接して大花壇が作られ、周囲の溝には鯉や金魚がいて、宙返りが見られると書いてあります(いまはありません)。

明治時代の大湯

「大湯」は野沢温泉の中央、常盤屋の隣にある共同風呂で、犬養御湯または惣湯とも言っていました。 この写真は明治21年に改築されたもの。前を蟹沢から流れる渓流が流れ、「潺湲(せんかん)たる響を伝え、いかにも山の湯治場らしい雰囲気を作っている」と、『厚生と療養――野沢温泉案内』(富井真)にはあります。

戦前の麻釜

共同浴場「大湯」から細い斜面沿いの道を行くと、有名な麻釜温泉があります。石畳に囲まれた湯池があり、底から100度近い熱湯が湧き出しています。昔、この熱湯に麻を浸したというので、麻釜の名がつけられたそうです。撮影された当時は、まだ囲いもなく、湯池も5つあったそうです。「名産のアケビ蔓やカブ、ワラビ、フキなどを茹で、卵は4~5分で茹り、酒瓶を入れて 2~3分で上燗になる」(『厚生と療養――野沢温泉案内』富井真)また、「土地の人は、麻釜より立ち上る湯気で、天気を占った」ということが書かれています。

薬師堂と薬師三尊の由来

寛永年間(1624~1644年)、共同浴場「大湯」に近い旅籠に安置されていた薬師如来が、たいへん御利益があると、当時、村人にひそかに信仰されていました。 それを聞いた松平藩士小栗吉次は、家の主や村人を説得し、秘仏を一般に公開しました。 場所を選んで小祠を建て、尊像を奉りました。評判を聞きつけ、薬師如来の功徳利益の恩恵にあやかろうと、多くの人々が野沢温泉を訪れたそうです。しかし昭和7年に灯明を消し忘れて失火、全焼してしまいました。再建が計画されましたが、不況とそのあとに続く戦争で、再建が開始されたのは昭和27年になっていました。29年に本尊の仏像を安置し、また薬師寺境内の粘土を混入した十二神将を安置しました。現在野沢温泉には13の外湯(共同浴場)があります。そのひとつの「大湯」には、薬師三尊が祀られ、残る12湯にそれぞれ十二神将をお祀りし、外湯のさらなる発展と安全を祈願しています。

道祖神祭り

野沢温泉で行われている道祖神祭りは、重要無形民俗文化財に指定されています。 写真は、昭和初期のもので、当時の道祖神祭りは、いまよりも原型に近いようです。 当時の様子を、戦前に富井真によって書かれた『厚生と療養-野沢温泉案内』では次のように書いています(一部加筆省略)。 「祭りは毎年1月15日に行われ、その2~3日前の未明から法螺貝を吹き鳴らし、土地の若者は揃って山に入って大木を切り出し、その材木で古代インドの建築に模した道祖神の祭壇を作る。夜に入って、年上の若者は火を消す立場、下の若者は火を放つ立場となって、篝火をかざして相争う。そして燃え盛る祭壇に、前年に男子が生まれた家は傘灯籠を投げ込んで、子どもの成育を祈る。また祭壇が焼け落ちてから、残った木片を拾って燃やし、小豆をあぶって豆の飛ぶ方向でその年の吉凶を判断する者もいる」

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