野沢温泉は、古くから「湯」と「祈り」と「旅」が交わる場所でした。
湯治場として、善光寺参りの道中宿として、そして人々の暮らしを支える温泉地として、長い年月を重ねてきました。
その中心にあるのが、大湯通りです。
湯煙が立ち上り、人々が行き交い、宿が軒を連ねるこの通りは、野沢温泉の歴史そのものとも言える場所です。
常盤屋旅館は、この大湯通りの中心で、江戸から明治、そして現代へと、野沢温泉とともに歩んできました。
時代が移ろっても、人と湯を結ぶ役割は変わることなく、今もこの地に息づいています。

明治の頃のポスター『御定宿目印』。
常盤屋が講中の定宿として認められていた証です。
江戸から明治にかけて、日本各地では「講」と呼ばれる人々の集まりが盛んに活動していました。
善光寺参りや伊勢参宮など、信仰を目的とした旅は、仲間同士で連れ立って行われ、その道中で宿泊する宿には「信頼」と「格式」が求められました。
常盤屋は、そうした旅人たちから「御定宿」として認められた宿でした。
御定宿とは、講中が定宿として正式に定めた宿のこと。
安全に泊まれること、誠実にもてなされること、そして長逗留にも耐えうる宿であることの証でもありました。
残されている「御定宿目印」の札や当時の資料は、
常盤屋が多くの講中に選ばれ、信頼を積み重ねてきた歴史を今に伝えています。
明治期の野沢温泉は、温泉街として大きな賑わいを見せていました。
記録によれば、当時の旅籠はおよそ27軒。そのうち15軒が、大湯の周辺に集中していたとされています。
大湯通りには、石畳が敷かれ、ガス灯が灯り、馬車が行き交っていました。
湯治に訪れる人々、荷物を運ぶ姿、宿の前で談笑する人々。
そこには、活気に満ちた温泉街の日常がありました。
常盤屋は、その大湯通りの中心に位置し、三階建ての建物は街並みの中でもひときわ存在感を放っていました。
写真に残るその姿は、明治期の野沢温泉の繁栄を象徴するもののひとつです。

明治期の大湯通り。ガス灯の並ぶ石畳を馬車が行き交いました。

川沿いに建つ三階建ての常盤屋旅館。湯治客の姿も見えます。

当時、野沢温泉を訪れていた人々の多くは、周辺地域の農民でした。
春から夏にかけての農閑期、とくにお盆前後には、家族連れで湯治に訪れる人々で街は賑わいました。
湯治は特別な贅沢ではなく、暮らしの一部。
朝湯に浸かり、日中は休息し、夕方に再び湯へ向かう。
そんな穏やかな時間が、野沢温泉には流れていました。
常盤屋は、そうした長逗留の湯治客を受け入れ、
人々の健康と日々の疲れを癒やす宿として、その役割を果たしてきました。

野沢温泉は、善光寺参りの道中に立ち寄る温泉地としても栄えてきました。
参拝という大きな目的の途中で湯に浸かり、疲れを癒やし、心身を整える。
その旅の形は、江戸時代から多くの人々に親しまれてきました。
当時の道中記や地図には、野沢温泉が街道の要所として記され、
宿場としての役割を果たしていた様子が残されています。
常盤屋は、その道中宿のひとつとして、旅人を迎え入れてきました。
遠方から訪れる人々にとって、常盤屋は「旅の途中の安らぎ」であり、
また「目的地へ向かうための大切な拠点」でもあったのです。

野沢温泉には、光明皇后にまつわる「千人風呂」の伝承が残されています。
病に苦しむ人々を救うため、自ら施しを行ったと伝えられる光明皇后の慈悲の心は、
野沢温泉の湯治文化と深く結びついてきました。
千人風呂とは、身分や貧富の差を問わず、多くの人が湯に浸かれる場。
温泉の恵みを分かち合うという精神は、今も野沢温泉の根底に流れています。
常盤屋の玄関に立つ石碑は、その精神を今に伝える存在です。
湯は、ただ身体を温めるだけでなく、人の心をも癒やしてきました。
常盤屋旅館 創業
善光寺参りの道中宿、湯治宿として野沢温泉が発展
常盤屋が御定宿として講中に認められる
大湯周辺の温泉施設が改築され、
温泉街が整備される
三階建ての常盤屋旅館の
姿が写真に残る
時代にあわせた改修を重ねながら宿を継承
歴史と文化を大切にしながら、次の世代へ

野沢温泉の湯とともに、人々の旅と暮らしを見つめてきた常盤屋旅館。
先人たちが築いてきた歴史と文化は、今もこの宿の中に息づいています。
時代が変わっても、湯を大切にし、人を迎え入れる心は変わりません。
これからも常盤屋は、大湯通りの記憶とともに、皆さまをお迎えしてまいります。